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マンガ『自虐の詩』は現代の歎異抄?

私のバイブル 第1回 

『自虐の詩』は現代の歎異抄?

業田良家『自虐の詩』

(竹書房文庫ギャグザベスト)より

 

 

1. バイブルとは

 私の人生におけるバイブルを挙げるとするならば、この業田良家師による4コマ漫画『自虐の詩』が真先にくる。

 そもそも「バイブル」とは英語で聖書を指すものらしい。僧侶の私ならば、本来それは『お経』が相当するだろう。しかし、あえて私にとってのバイブルはこの4コママンガを猛烈プッシュする。『お経』と一緒に拝読したいくらいだ。そうだ、今度声高らかにこのバイブル『自虐の詩』を拝読することにしよう。

 さて、いささか話が逸れてしまったが、なぜかこのマンガが私にとってバイブルであるのか。簡単なことである。私がこのマンガに救われたからだ。

 

2.『自虐の詩』との出会い

 阿部寛主演で実写映画化もされたこのマンガは、もともと1985年から1990年にかけて、男性サラリーマン向けの週刊誌で連載されていた様だ。もちろん平成生まれの私は連載当初の現役読者ではない。

 きっかけは大学在学時、当時バイトをしていた京都国際マンガミュージアムの研究員の方が『自虐の詩』のコミック(なぜか下巻のみ)を貸してくれたことだ。

当時、私は物事が思い通りに進まず、病んでいた。プロのマンガ家を夢見ていたものの全く結果が出でない。周りの友人たちが次々にデビューする中、嫉妬と焦燥に駆られて、地獄のどん底に堕ちていた。私は病んでいたのだ。

 …今でも忘れない、クライマックスのの衝撃を。あの感動を。思い返せばマンガで涙したのは、後にも先にもこの作品だけかも知れない。ラストの言葉は今も私の胸に強く突き刺さっている。

 

3.魅力

 て、いよいよ内容に入っていくわけだが、未読の方はまず一度読んでいただきたい。

あの感動を私の拙い文書が奪ってしまうのはあまりに忍びない。貴方の人生にとって大きな損失になるだろ。

 このマンガは、主人公・幸江さんと癇癪もちで何かとちゃぶ台をひっくり返すヒモ亭主イサオの日常生活を描いたギャグマンガである。大抵、オチで幸江さんが何かしらの不幸に見舞われ、自虐を延々と繰り返すストーリーとなっている。

 ハードモードの人生を健気に生きる幸江さんの姿には、遠い昔に置いてきてしまった慎ましさも感じるのである。このストーリー、今の日本では成立しないだろう。ノスタルジーを呼び起こすどこか温かみのある物語の背景も作品の魅力の一つだ。

 

4.衝撃のラスト

言わずもがな、幸江さんは幼少期より苦労が絶えず、世間がゴリ押しする「幸せ」の定義とはかけ離れた人生を歩んでいる。でも、

「幸江さんは彼女だけの幸せをつかんでいる!幸せの価値観は人それぞれなのよ」

まあ、普通はこうなるだろう。実際よく見るセリフだし、こんな風に言われたら反論できないのが昨今の風潮である。人の幸せにとやかく言うなと。

しかし、幸江さんは違った。唯一の親友に会うべく、身重の身でありながら必死に駆ける幸江さん。これまでの人生を振り返り、クライマックスにむけて加速していく物語。過去から未来への希望、そして現代に着地した瞬間に現れる答え。

 

幸や不幸はもういい どちらにも等しく価値がある 

人生には明らかに意味がある

                             業田良家『自虐の詩』(竹書房文庫ギャグザベスト)より

 

…どうだろうか?痺れないだろうか?私は今でもこの言葉に触れると心が震える。

幸江さんは飛び越えていたのだ。翻せば、いかに私が「幸せ・不幸せ」の概念に縛りつけられていたことか!

 ここには仏教があった。このワードは仏の慈悲そのものを言い当ている、強い願いであり信仰告白だ。私は「南無阿弥陀仏」と同義であるとすら感じる。

 生死の不安と愛憎の悩みに絶えず晒されている私たちの価値を見出してくれる存在こそ、阿弥陀如来である。幸江さんがこの境地に至るまで、その道のりは決して平坦なものではなかったはずだ。彼女は日々の生活のなかで、おそらく私の価値観を超える存在に出会ったのだろう。

 人生の意味を明らかにしてくれる存在、人生には明かに意味があるという真理だ。そして、この瞬間、読者も幸江さんを不幸な女と見下していた事実に気付く。

少なくとも自分は自虐を繰り返す幸江さんよりかはいくらかまともな人生だ」、としかし、それがくつがえされるのである。

 比べること自体がナンセンスであったのだ。

 

 

5.「幸」からの解放

 私は幸せになりたかったのか。違う、「幸せ」にならなくていけないという責務を自分に課していたのではないか。世の中は盛んにはやし立てる、「幸せになれ!幸せになることにこそ、人生の価値がある!」じゃあその幸せって何なんだ!?奴ら(奴らって誰だ?)結局は懐が狙いなんだろう。パッケージ化された「幸」を売りたくて売りたくてしょうがないのだ。「幸」を買ったら次の「幸」を売り出すに決まってる。「不幸」は「幸」を売り込むための絶好の市場であると言うことだ。つまり、不幸せが無くなったら幸せが売れなくなるから困るということだ。こんな世の中で一体誰が幸せを手にできようか。

私は疲れていたのだ、人生が市場扱いされることに。落ちこぼれないように恐る恐る歩む人生に。この作品のラストは煩わしい世間の価値観に「うるせー!!黙ってろ!」と清々しい程に叫ばんばかりである。このマンガ読んだ後だったら言える、私の人生は誰かの市場なんかじゃない。

 

6.「幸」や「不幸」の定義を辞めた日

このマンガに出会ってから、私は物事を「幸」「不幸」に定義することを辞めるようにした。物事は起こるべくして起こっているのであって、定義化は意味がないからである。これまで私は与えられる「幸」のを深く考えてこなかったのであろう。

 何となく、そこに価値を見出し知らず知らずのうちにレールの上を歩かされていた。気づけばそこが当たり前になっていた。

だったらもう、「幸」か「不幸」を考えることなんて辞めてしまったらいい。大抵それはもう、現実に起こっていることだし、私ができる事はどう受け止めるか、それだけだ。

「幸」「不幸」の二極化は時として私たちの冷静な思考を奪い、盲目的にしてしまい、人生の価値と直結させてしまう。

 辛いことは辛い、それは否定できない。事実この世界は辛いことで溢れている。だけどそれは価値や人生の意味とは比例しない。惑わされてはいけないのだ。私は生きねばならない、そこにあえて自ら不幸を持ち込む必要なんてどこにもないんだ。最後にもう一度、この言葉を振り返ろう。

 

幸や不幸はもういい どちらにも等しく価値がある 

人生には明らかに意味がある

 

                             業田良家『自虐の詩』(竹書房文庫ギャグザベスト)より

どうだろうか?ヘタな説法よりよっぽど響く言葉ではなかろうか。私にとっては耳の底に残師の格言である。ぜひこのマンガを通して読んで、この感動を共有していただきたい。

・・・これからは幸江さんではなく、幸江上人とお呼びすることにしよう。